2012.05.12 Sat
七色の追憶 三の巻
「驚いたなあ。あんなきついこと言う梅蘭、初めて見たよ」
街へ続く坂道を軽やかに降る窮奇はくいと首を上げて、姚を見上げた。
ひょろりとした男は光が眩しいのか、掌で軽く廂を作りながら視線だけを
足元に落とす。相変わらず猫の姿のままの窮奇は四本の足を動かして
跳ねるように歩き、尻尾はゆらゆらと揺れていた。
「御機嫌だねえ」
そう言った姚の言葉には苦笑いが含まれていたが、窮奇は気付いて
いないのか、気付いていても気にするべきことではないのか、からりと
した返事をする。
「だって、自分以外の奴のために腹を立てるのって梅蘭らしいし」
なるほどね…と、姚は頷いた。梅蘭が天にいる頃、友達らしい友達と
言えば香霞公主だけだった。梅蘭の住まう欲界は天界の最下層であり、
下界に一番近い場所だ。無論のこと、梅蘭は二郎神の付き添いなしに
上天に昇る行為は許されてはいない。そして上に住む天女らは己より
下層に住む者をわざわざ尋ねるなどはしなかった。
唯一、香霞公主を除いては。
今となっては、梅蘭が何故に下界へと降り、如何にして窮奇や渾沌と
運命を共にすることになったのか、二郎真君から全てが語たれ、仔細は
把握している。真実は胸の内に仕舞い、口にすることは憚られる訳では
あるが、それでも兄弟らは皆動揺を隠せないようだった。平静を保って
いたのは張と姚の二人だけだ。張は常より沈着で、物事を冷徹に受け
止めることが出来た。そして姚は初めて香霞公主に目通りしたときから、
どこか危ぶむ気持ちを持っていたのだ。
(こういうとき、女の子の気持ちに敏感だときついよな。杞憂で終わって
くれりゃ良かったのに)
ぼりぼりと頭を掻きながら、心の中で愚痴を吐く。
彼女の二郎神を見る目も、最初は柔らかく萌える恋草だったのだろう。
(恋風は北風となって、新芽を枯らしちまったのかね。だけど)
それでも、梅蘭に会うために上天から降ってきてくれたのは、彼女だけ
なのだ。
「だからね、お前がやったことは間違いじゃないんだよ」
「きゃっ!」
不意に後ろから声を掛けられ、梅蘭は椅子から小さく飛び上がった。
窮奇が膝の上にひょいと乗ってくる。
「梅蘭、見っけ」
梅蘭は姚の存在に気付くと窮奇を抱え、慌てて立ち上がろうとしたが、
姚は笑いながら両掌を見せるとそれを制し、自分もまた椅子を引いて
妹の隣へと腰掛けた。梅蘭の足が完全に浮いている背が高い椅子は、
ずらりと横に並び、それに合わせて細長い卓が設えられている。卓の
向こう側は調理場、壁に設えられた棚の上には、埃まみれだが、形の
残っている食器。床には大きな壺が並ぶ。なるほど、ここは酒場だなと
姚が言えば、窮奇も猫の口の両端を吊り上げ、笑みを浮かべた。
「酒屋兼、酒場さ。でもご飯やオレたちのおやつも作ってくれるよ」
「子供がこんなところに来るっての?」
窮奇は梅蘭の膝の上で卓上に両手を掛けていたが、姚の方に顔を
向けると不思議そうに首をひねった。
「何で?子供が行っちゃ駄目な場所なんて、外界を除けば崖っぷちか
王宮の武器庫くらいだったけど」
窮奇は意味がわからない様だったが、酒は毒と薬の如く、紙一重の
飲み物だ。故に酒場もまた、健全に酒をたしなむ場所だとは限らない。
加減を知らずに溺れる者や、礼儀を忘れて喧嘩を始める連中もいる。
時にそれらの喧騒に紛れて怪しげな取引の場となり、片隅では奸策が
囁かれることも少なくないはずだ。だが窮奇は首を横に振った。
「父上も、父上の友達も、他のお客も、いつもお酒を飲んで笑ってたよ。
で、大騒ぎしておばちゃん…、酒場を切り盛りしてたおばちゃんに叱ら
れんの。でも叱られてまた皆で笑うんだ。酒場ってそんな場所だよ」
姚は視線を上げて宙を見詰めた。窮奇の語り口は単純だが、まるで
当時の賑わいが浮かんでくるようだ。炎王朝には酒に依存する者など
いなかったのだろう。
(考えれば当たり前か)
炎王朝は王族だけでなく、全ての民草が呪宝に拘わる民族なのだ。
酒如きに溺れるようであっては、呪宝集めを担うことなどできはしない。
酒場は子供すら出入りが自由な、楽しいだけの場所だったのだろう。
「ちゃんと節度が…、いえ、そんな堅苦しい言葉ではなく、もっと自然で、
大らかなものを持っているのでしょうね」
梅蘭の声は優しげで、寂しげで、そして明らかに自省と自嘲を含んで
いる。窮奇が心配そうに梅蘭を見上げ、鼻を鳴らした。
「兄上様、ごめんなさい。私あの方たちに酷く失礼な態度を取ってしまい
ました。勝手なことをして心配をおかけしてばかりなのに」
このくらいのことで涙を見せる梅蘭ではないが、自責の念は顔色を暗く
塗り替える。姚は俯いた妹の横顔を見、小さな口からふっと息を吐いた。
「そうだね。俺もお前にひとつ言っておきたいことがあるよ」
「…はい」
数多の女性に対してだけでなく、姚は兄弟の中では一番梅蘭に甘い。
そんな兄の珍しくも厳しさを含む声色に、妹も背筋を伸ばした。目と目が
合う。細く切れ長の目、普段は美しいと思う赤い瞳に真剣な光が宿れば、
それは正に兄を象徴する蛇の如く、一息に呑み込まれてしまいそうだ。
梅蘭は己でも気付かぬうちに生唾を飲み込んだ。
「良い女だったよ」
余りに自然な物言いだった。涼しい風のようにさらりと流れたそれは
並んで座るふたりの黒髪を揺らすような錯覚さえ起こさせる。ぱちりと
大きな瞬きと共に、窮奇が尻尾を揺らせたことで、梅蘭はようやく兄の
言った言葉を理解した。尤も言葉そのものを理解しただけで、深意は
把握できていない。大いに戸惑いを浮かべて、幼さの増した華の顔に
苦笑しつつ、姚は身体の向きを変えると両手で妹の頬を包み込んだ。
「相手が誰であろうとも、朋友の名誉を護り、朋友のために怒ることは
間違っちゃいないだろう?だから思ったんだよ。ああ、俺の妹は良い
女になったってね」
黙っていれば冷たい印象すら与える風貌の兄の、にやと笑った顔は
奇妙に愛らしく、梅蘭は釣られて相好を崩した。叱責を受けるだろうと
覚悟していた時には堪えられていたものが喉元に詰まり、少しばかり
泣きの交る笑顔だったが、窮奇は仲の良い兄妹の姿を下から見上げ、
嬉しそうににゃあと鳴く。
「梅蘭、良かったね。香霞公主とも早く仲直りできるといいよね」
「おや、お二人は仲違いをされているのですか」
「うん、だってそれがそもそもの発端…って、うわああっ!」
窮奇は悲鳴を上げると梅蘭の膝の上から転がり落ち、人の姿に戻り
ながら埃だらけの地面に思い切り尻餅を着いた。顔色を変えた梅蘭と
姚の心情を、窮奇が ( 己の本音も含めて ) 代弁する。
「また出た!」
屋内にあってもなお太陽の如き煌めきを放ち立っていたのは、顕頭
大帝だった。梅蘭の痛烈な迄の攻撃にすごすごと退散したのはついぞ
昨日のことだと言うのに、まるで綺麗さっぱり忘れてしまったような清々
しい顔は、天晴れと言うよりほかに言葉が見つからない。窮奇は緩慢な
動作で立ち上がると、梅蘭の向こう側に回り込んだ。つまり梅蘭の影に
逃げ込んだのだ。姚もいることだし、自分が前に立つ必要はないと判断
したのだが、とにかくもう、顕頭大帝とは拘わり合いになりたくなかった。
無論梅蘭や姚とて同じ気持ちではあったが、そんな深意や空気を顕頭
大帝が読めないこともまた毎度のことだ。既に彼は満面の笑みで口を
開きかけている。またお喋りが始まるのだろう。窮奇はうんざりとしつつ
腰を曲げて卓の上に肘を付いた。
「先ほど広場で偶然噂を耳に致しました。友を想い怒りを見せる公主は
やはり素晴らしい方ですね。姚大尉が兄として誇りに思われるお気持ち、
至極よく解りますよ」
「それはどうも……。いや、どこから聞いてたんですか、貴方」
「最初の"良い女"と言うところからです」
「そうじゃなくて、場所」
「ああ。入口横の壁に添って聞いておりましたが」
盗み聞きじゃねえかと窮奇は忌々しげに吐き捨てたが、小さな声には
自重と警戒が含まれている。梅蘭と香霞公主が仲違いをしていることを
知られてしまったことはどう考えてもまずかった。
(こいつに事の成り行きが推測できるとは思わねえけど、憶測で勝手な
ことを周りにくっちゃべられちまったら面倒臭えよな)
ちっと己にだけわかるように舌を打った窮奇の苦悩に気付くこともなく、
顕頭大帝はべらべらと話し続けていた。
「嗚呼、何と清らかな心。所で公主、私には華光と言う名もあるのです」
「…存じてますわ」
「では公主!考えても見てごらんなさい!私は輝く華。貴女は愛らしく
美しい梅と蘭の華。なんと似合いなのか、これを運命と言わずして何と
呼べばいいのでしょう!」
きらきらと煌めく何やらを振りまきながら顕頭大帝が輝けば輝くほど、
三人の顔に色濃い影が落ちていく。姚と梅蘭がのろのろと席を立つと、
その後ろに顕頭大帝、そして窮奇が付いて店を後にした。屋外の光は
顕頭大帝の放つ煌めきに比べ、随分と柔らかだった。
「お前……、ほんっと懲りないなあ………」
"梅蘭と香霞公主の現状"と言う駒を手に入れた相手に対し、余計な
ことは言えないと警戒していた窮奇から、止め様のない本音がぼろりと
零れる。先頭を行く姚と梅蘭を余所に、顕頭大帝は路地に差しかかった
ところで足を止め、振り返った。窮奇の発言を特に不愉快に感じている
風もなく、しかし浮かべる笑みには嫌みが漂っている。路地から流れて
きた風が男の黒髪を揺らしたが、それは何処となくどす黒くて寒々しい。
「君にはむしろ礼を言ってもらいたいがね」
「……何の礼だよ」
「妖怪二匹と身を重ねたような娘を一体どこの誰が娶ってくれるのだ?
こちらとしては感謝して貰いたいくら」
最後まで言い終らぬ内に顕頭大帝は身体を真横に折り曲げ、やはり
真横に吹っ飛んだ。窮奇は壁に叩きつけられて地面に突っ伏した男を
無表情に見下ろし、それから路地の方へと視線を移す。
「良い蹴りだったな」
薄暗い路地から姿を見せた渾沌の顔には、不愉快極まりないものが
拭いきれぬままにがっちりと張り付いていた。
暗闇からの白い鬼神
●次回更新は 5/26 です。
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